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 諫早周辺の山 諌早に出かけたとき暇を見て近くの山に登っています。
 ≪2009年11月23日≫長崎街道 風観岳 236.2m  日岳 258.3m
  風観岳(ふうかんだけ) 236.2m 旧長崎街道沿いの山

左 破籠井(わりごい)
  バス停から見た
  風観岳
  バス停の先に
  旧長崎街道の
  案内碑がある

 右 破籠井配水池
   展望台かと
   思ったら配水塔
   だった。
   

左 長崎街道
  国道から離れ開発から
  まぬがれ、昔の姿を
  とどめていることも
  あって文化庁の
  
歴史の道百選」に
  選ばれている

 右 シーボルトや象も
  通ったであろうと
  思うと歴史の世界に
  引き込まれる
 大名行列、峠の茶屋、
 駕籠、馬、ひょっとしたら
 追いはぎも・・・・
  
  
 
左 どんばら石
   どん腹、
  大きい腹の意
  元はひとつの石
  だったのだろうか

右 大渡の番所跡
  大村藩と諌早藩との
  境にあたり、番所が
  あったという。
  正確には佐賀藩
  諌早領、

左 杉林の街道
  ずっと、照葉樹の
  なかだったが
  ここで明るくなった
  
右 鈴田峠の硯石
  

左 朝日、石積がある、
  シーボルトは整然と
 茶畑が広がっていたと
 記述しているという。

右 鈴田峠から北に
  向かい尾根から
  コンクリートの道が
  山頂方向に向かって
  いる、そのわきに
  境界石がある。
   大村藩は丸塚
  諌早は角塚を作った
  という。

左 コンクリ道から
  山頂をめざす。
  山頂には三角点が
  あるが展望はない

 右 巨石が散在
   支石墓と言われる
   

左 境界標柱
  「従是佐嘉領」
 側面には
 「東方遥拝所」と
 刻んであった
  近くには日露戦争の
 戦死者の慰霊碑も
 あった。

 右 石祠(風観さん)
  元の道に戻り先に
 行くとこの祠の手前で
 道は終わり、あとは
 尾根の林の中を倒木を 乗り越えたりして
 街道にでた。

 ケンペル(1651〜1716)、ツュンベリー(1743〜1822)、シーボルト(1796〜1866)はかつて
出島阿蘭陀商館付医官として来日したいわゆる出島三学者である。彼等は日本文化の発展に
貢献し、又日本文化を海外に紹介した功績は大きく、
 
E.KAEMPFER C.P.THUNBERG
 Ecce! virent Veatrae hic plante florentque quotannis  
 Cultorum memores,serta feruntque pia. Dr. von Siebold
 ケンペル、ツュンベリーよ見られよ、君達の植物がここに来る年毎に緑そい咲きいでて、
そが植えたる主を偲びては、愛でたき花のかつらを なしつつあるを シーボルト
 と
彫られた碑が長崎大学医学部の構内にある。
 シーボルトはケンペルの江戸参府旅行日記などを読んで日本に興味をもったのだという。
1826年にシーボルトは江戸参府の時、この長崎街道(大村街道 諌早ー大村)を通っているが
ケンペルは、諌早-竹崎間、あるいは時津-彼杵間を船に乗っていてこの街道は通っていない。
ケンペルが最初に江戸に出発したのは1691年2月13日の事であり、まだ長崎街道の整備が
十分でなかったのかも知れない。かれらの江戸参府紀行は平凡社の東洋文庫で読むことが
出来、当時の日本の様子、たとえば佐賀には美人がいたとか浅野内匠頭が存命中でその
收入は5万石だったとか興味はつきない。
 日岳 258.3m 車で行ける展望の山

 風観岳の地図を見て
いたら、日岳という山が
目に付いた三角点も
あるらしい。
 ということで出かけたら
山頂まで車道が通じて
いた。

左 日岳山頂
   三角点

右 長崎空港を望む

左 琴ノ尾岳
  霞んでいまひとつだが
  絶景には違いない。

下山後、雲仙の
石割山にでかけました
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